2007年09月23日

墨染め衣への憧れ

 着物ライフを始めて、起こった面白い変化の一つが、仏教への関心です。
 家庭にも自分自身にも全く宗教色のない、でも神仏はどこか信じていて神社仏閣で手を合わせ、賛美歌に心動かされ、先住民の儀式に荘厳を感じる‥宗教心っぽいものは持っている。典型的な「日本的無宗教」でした。
 そういう人にとって、仏教は最も近しい宗教だよね。

 お彼岸、祖母の家に遊びに行った際、檀家になっているお寺のご住職がお経をあげに来てくれました。20年以上前、祖父が亡くなってからのお付き合いで、大変お話が面白く、それでいてどこか深々と心を打つ風情を持った方。祖母は崇敬し大変懇意にしていて、私も折に触れお目にかかっています。
 私たち家族にも各々般若心経のコピーを渡して下さり、位牌の前で皆で読経しました。小学生の息子たちも初めて見る漢字だらけの不思議な紙に目を白黒させつつ、振り仮名を追って神妙に唱和していました。
 別のコピーには「八正道」とその意味が書かれていました。「正しい認識、正しい考え、正しい言葉、正しい行い‥」そうそう、こんなの高校の社会でならったっけ、と思い出しつつ、なんて現代に欠けているものばかりなんだ、と嘘寒くなりました。

 お経の後に、小さな「お説教」(現代の、お小言という意味ではなく、本来の教えを説くという意味の説教!)をして下さるのもいつものことです。今回は、息子たちに配慮してか、うんと易しく噛み砕いたお話でした。曰く、
「お釈迦様は6年間の厳しい修行の末に、世の中の真理を見つけました。それは3つ。明日のことは分からない。人は自分一人で生きているのではない。人生思い通りになんかならない。」実際は少し具体例も交えましたが、まあ、こんな話でした。
 身分も家族も捨てて6年も苦労した割には、ずいぶんありきたりな結論だ(笑)。でも最近仏教に興味のある私にはこれが「諸行無常」「縁起」「一切皆苦」だ、とピンときました。こんなに子供にも直感で理解できる言葉で、大事な仏教の教義を伝えるなんて、やっぱりすごいお坊さんです。

 かつては日本人の生活の中にも、「目に見えない正しい行いの道」を説くこのような役割が社会の中に存在し、機能していたんだよね。別に着物とリンクしているわけじゃないけど(^^; でも、かつてみんな着物を着ていた時代にあったものが、今は消えてしまったのが、シンクロして見えて、切なくなりました。

 お坊さんの袈裟は茶色でした。単衣なのかなー、30度近い気温に、外では暑そうでした。

 作家・瀬戸内寂聴さんは得度しました。作家や知識人にクリスチャンが比較的多い中、当時新鮮な思いでした。
 彼女がどんな思いで僧籍へ入ったか、さして詳しくない私には分からないのですが、源氏物語を訳した彼女の中に、自然と「仏教が生活の中に生きていた」感覚が刷り込まれたことは間違いないと思う。
 その衣服を身につけることで、「その時代の精神」とつながることができる‥そういう意味で、僧衣をまとってみたい、とちょっと思った私でした。

 道を説く 袈裟に映るや 彼岸花 〜衿女
posted by eribow at 10:46| Comment(7) | TrackBack(1) | 着物つれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは☆ご訪問とコメントありがとうございました♪

私も義父が亡くなってからは仏教とその教えに色々と関心が出てきて、般若心経の本を買ってみたり、写経をしてみたり・・・

でもまだよく分からないことばかりなのです〜。(読めば読むほどわからない。。。)


お彼岸にお寺さんに行った時、私もお坊さんに会ったのですが、暑い中着物(袈裟?)を着ていらっしゃっいました。当たり前なのでしょうが、大変だな〜と。

うちは仏教ですがお寺や神社、教会も好きな私です。


Posted by けーこぽん at 2007年09月25日 19:36
我が家に来て頂ける庵主さま(70代)の夏の衣装で面白いのは、袖が腕に張り付かないためか、竹で荒く編んだ篭のようなものを腕に付けていることです。どこから始まるのか、どのように固定されるのか不明なんですが・・・

ところで人生が思い通りにならないと思い知ったのは妊娠した時でした。普通は子供を産んだあとなのにね(苦笑)。でもそのお陰で子育ての時にはすでに気が楽なっていました。仏教も極めると(つまり悟ると)気が楽になるんだと思います。
Posted by うまこ at 2007年09月25日 23:11
>けーこぽんさん
お越しいただき、ありがとうございます♪
こちらでもどうぞよろしく

>でもまだよく分からないことばかりなのです〜。(読めば読むほどわからない。。。)
私も生齧りの新知識で用語を分かった気でいましたが、
引用するためにWikiを見たら、すっかり分からなくなりました(爆)

>暑い中着物(袈裟?)
大袈裟、という単語をなぜか思い浮かべてしまいました?!

>うまこさん
>袖が腕に張り付かないためか、竹で荒く編んだ篭のようなもの

そういえば、扇風機内蔵の作業服(電池式)、売っているの見ました
実用の服は、いろいろ進化するものですねえ(感心)
竹篭、というのが、昔風で風情がありますね(笑)

思い通りにならない「こともある」ではなくて、
「一つも思い通りにならない」っていう考え方、すごいですよねえ
そう思うと、たまに思い通りになった時にめっちゃ嬉しい?(笑)
それが「有難い」という気持ちなのでしょうね

Posted by eribow at 2007年09月26日 17:29
心常念悪(しんじょうねんなく)
口常言悪(くじょうごんなく)
身常行悪(しんじょうぎょうあく)
曾無一善(ぞうむいちぜん)

心も口も身体も、常に悪を思い言い行なっている
かつて1つの善も無し

仏教は厳しいですね。
普段良かれと思ってやっている事も、突き詰めると(仏の眼から見ると)偽善である…
この言葉を目の当たりにし自分を振り返るとよく分かります。

他所様への宗教的な書き込みは適さないと思っていますが、今色んな事を反省しているところにこの記事を見たもので、ちょっと触れてみました。(不都合ならば削除して下さい)

私もお経(最初は般若心経)に興味を持ち、学び始めて20年ですが、1つの言葉(文字)にも深い意味が有るというのを学んでいる最中なのです。
Posted by つむパン at 2007年09月26日 19:02
>仏徒つむパンさん
書き込み下さるんじゃないかと、密かに期待してました♪

>心も口も身体も、常に悪を思い言い行なっている
>かつて1つの善も無し

キリスト教の、「一度も悪をなしたことのない者だけがこの女に石を投げなさい」
のエピソードを思い出しますね
仏の目から見れば誰もが五十歩百歩、人を責めることなんかできないですよねorz

>1つの言葉(文字)にも深い意味が有るというのを学んでいる最中なのです。

何かで読んだ「慈悲」の「慈」と「悲」の解説に胸打たれました
「慈」は「いつくしむ」じゃなくて「相手の幸せを喜ぶ心」、
「悲」は「かなしい」じゃなくて「相手の苦しみを取り除きたいと願う心」
だって!
そんな心で生きられたらなあ‥(溜息) ってできたら仏か(^^;
Posted by eribow at 2007年09月27日 16:43
「悪を行なったことの無い者だけ残れ…」
と言われたら、残る者はいないでしょうね。
ここには自覚が有ります。

「生まれてから、たった1つの善もやった事が無い者だけ残れ…」
と言われたら、これも残る者はいないでしょう。

善が出来ない自分だという感覚は無いから。
1つどころかいくつかは良い事してるんじゃない!?って自惚れが有る。

同じような話ですが、自己を見つめる姿勢においては、かなりお釈迦様の教えの方がより厳しいと思うのです。
Posted by つむパン at 2007年09月29日 20:03
>つむパンさん
ウワー、そっかそんな差がありますね(><;
今の世の中、「自分は正しい」と人を糾弾している人が、
最も心醜く、始末に負えないことが多いですよねえ
「自分は正しい」というのは本当はポーズで、
心の中では自覚があって人を叩くのを楽しんでいる人が半分
心の底から「自分は正しい」と思い込んでいて、その自覚なしに
正しくない人に矛先を向けるメンタリティが日常化している人が半分
「善」が「毒」になる、ということがよく分かります

でも、そんな小人間の「悪」すべてが、そもそも許され、受け入れられている‥
それが「大慈悲」というものなんでしょう?
それこそ、全ての諍い、争い、醜さ、エゴが、
「お釈迦様の手のひらの上」なのですよね?
「お釈迦様の手のひら」を感じてみたいと思う今日この頃です
Posted by eribow at 2007年10月01日 16:01
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